自己嫌悪が他人へも投影されてるのか、否、事実か。

尽くした分を好意と錯覚するだけで、愛している自分が好きなだけでしょ?尽くす度に相手を特別に感じるんでしょ?私じゃなくてもよかったんでしょ?

 

何を埋めても与えても成り立たない関係性と無意味な会話。

 

 

正誤を分析し始めたら価値観の押し付けあいにしかならない。少数派が間違いでもない。

 

 

人間の関係性の全てが損得勘定、自己満足だなんだと当てはめたら気色が悪く、正しくても生きやすいのか。

 

 

責任をとるわけでもない否定の意見。

 

自分なら馬鹿らしい他者の選択肢も、自分もその立場になりうるという事。投げつけられた者からしたら感情的に自分の真理として信じた選択なら尚存在否定になるでしょ。

 

正しさだとしても言わないべき関係性の距離、伝えるにしても言葉選び。面倒臭いとしても扱えず自己主張を振り回す人間の方が図々しい。それに自覚もなく自分を棚に上げて他者に加害者とも思わずいる。

 

人間なんにしろ加害者になりうるんだ。

 

そう考えたら、もう分かり切った気持ち悪さを、自分ら人間がそういった生き物なんだって認めないのやめよう?

 

まあ、それも無理だ人間は。自覚しても嫌悪より自分に優しく見解を並べるもの。さあ、僕もその汚い人間の1人。

 

 

浅はかか深みがあるか、行動が軽率か慎重か尽くしたか尽くされたか全部の言動生き方に意識があるか否か。

 

 

皆、それぞれに自分という単体があって人と接触してとる行動に意味があるのか。

 

本当はないんだよ。

 

あるとすれば自分が大切に思うことが大切なだけで万物共通、な?気持ち悪いな。今別に悪くないだろ?って思ったろ。

 

 

そうやって罪すら肯定して忘れて生きていられる。そうしか生きていられない。

 

ある程度同じくらいのものの見方さえあれど他者全てに意味のある人間になれればいいわけじゃないね。自分が出会った人の中が自分の世界で、その一人ひとりに与えたもの与えられたものに価値を感じてるだけ。

 

自分が他者に感じて思ったもの、規律や見て解る事に関心を寄せて優越感に浸るだけの声をあげるこそ一番意味がない。虚しい行為だ。接触で意味を持つだけ、価値をもつだけ。接触じゃない言葉なんて憶測で自分に向けられたとしても、読まれない本に書かれていた文章の一節くらい正直僕は関心が持てない。価値を感じても関係性の構築に不必要なら記憶に要らない。

 

 

感情論も、理屈もどっちも当人同士が言うものであくまであいつは馬鹿だーと聴こえるようにいう方の悪意の方が勘違いより気持ち悪い。

 

 

依存には問題がない。問題は内容で。


欲も一致した後にそれきりはそりゃ欲を通して繋がったけど愛し合う関係に変えていけるかとか時点で答えはそいつら当事者にしか検討つかない。ああ、統計とか人間せいだとかを知り得る人間の情報自体は無駄に思ったことないよ。

 

 

 

やっぱりなんにせよ、こういった嫌悪が自分の視界を埋める。自分だけが頭がおかしい、汚い死ぬべき?ごめん。やっぱり正せないや。

 

 

人間の汚さに触れすぎて、汚れて

綺麗な見えるものに涙が出る感性は毒に汚染された人間のみが知り得る。特別なわけじゃない、だから歳をとると涙脆くなるっていうんだろうね。

 

歳じゃなく、触れてきたものの汚れは傷は落ちる事はないからさ。嫌だと泣いても、まったく触れずには誰しも生きてはいられないけど多く触れなければならなかった人間の哀しみも遣る瀬無さももうどうしようもないね。

 

そもそもまず人間というものが、どうしようもないのか。今更だな。